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パラグアイへ移住した日本人達の歴史

1.日本の海外移住の始まり

日本人のパラグアイへの移住は1936年から始まり、2016年で移住80周年を迎えました。南米には多くの日本人移住地となった国がありますが、パラグアイは南米で最も新しい日本人移住の国として知られています。そのため、移住1世の方も多く健在で、日本の文化習慣というのも色濃く残っています。

1.日本の海外移住の始まり
日本人の海外移住は、1868年にハワイ王の要請により150名がハワイに渡航したのが最初といわれています。その後1885年(明治18年)日本政府とハワイ王国の間に移民条約が締結され、その後ハワイがアメリカの一部となることで、北米への移民が始まりました。

​これらの移民の大部分は農民であり、さらにその大半が自家の経営を立て直すことを目的としたいわゆる出稼ぎ労働者として渡航し、永住目的ではなかったといわれています。

しかし、黄禍論により排日移民法が定められ、対アメリカへの移民は禁止されました。一方、奴隷解放後の南米ではゴム園・コーヒー農場などの大規模プランテーションでの労働力が不足していたため、その代替労働力として、ペルー・ブラジルへの集団移住が始まりました。

​2.パラグアイ移住への背景

前記のように出稼ぎに来た日本人移民と、奴隷の代替を求める雇用主との間では目的の違いから紛争が絶えず、過大な重圧を受けた移民による脱走が相次ぎました。

ブラジルでは排日の機運が高まり、これを察した日本の外務省・拓務省はブラジル以外の国への移住の可能性を調査を開始しました。在アルゼンチン特命全権公使は当時のパラグアイ政府(エウセビオ・アジャラ大統領)より日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、1930年には「パラグアイ拓殖計画」を提出しましたが、これに対する日本政府の反応は薄く、実現には至りませんでした。

​その後、1934年には排日機運の高まりを受けてブラジル政府が「移民二分制限法」(定住した当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令したことにより当時年間2万人の日本人入国の枠組みが、一挙に年間2,500人まで制限されました。これにより急速にパラグアイへの海外移住の準備が始まり、翌1935年には日本人移民100家族のパラグアイへの入国許可を取得します。

​しかしながら、1932年から1935年のチャコ戦争後武力革命により政権を握ったラファエル・フランコ大統領は「入国許可は前政権からの許可であり、現政権は認めない」としたため、一旦は移住準備も頓挫してしまいましたが、関係者による交渉により、1936年4月30日大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を試験的に受け入れる許可が下りました。

​3.戦前のパラグアイ移住

パラグアイの移住地選定は、拓務省の直轄で進められ、対外関係上、表向きは当時の海外移住組合連合会系列のブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人氏の個人名義により移民の入国許可や入植地の売買が行われました。これが第2次世界大戦時には功を奏し、敵国資産として没収される事態を免れました。その後、移住地については実質拓務省の直営とし、ブラ拓の中にパラグアイ拓殖部(パラ拓)が設けられました。

​1936年3月には入植地選定の最終調査が行われ、3地区のうちから現在のラ・コルメナ地区が選定されました。当時その調査にあたった笠松尚一(2代目パラグアイ日本人会連合会会長)の感想では、以下のように書かれています。

​「調査のためにこの地に到着したときは、夜の11時で寒さと飢えに心身ともに憔悴していたものであったが、その上夕飯にもありつけず、しかも南京虫に襲われるという有様であった。ところがその翌朝、我々の眼前に展開した光景は何であったか、それは祖国の田舎風景そのままであった。

この光景に接したとき、殺風景なサンパウロに比較し、我々自身の目を疑わざるを得なかった。胸のうちは全く夢のような感じで一杯になり、ほれぼれと付近一帯を眺めいったものだ」(ラ・コルメナ20周年史より)

​1936年5月15日にはパラ拓スタッフが現地に入り、建設の第一歩を印し、同年6月にはブラジルからの指導移民、8月には日本から最初のパラグアイ移民が到着しました。初期のラ・コルメナ移住地は準備期間が短かったこともあり、その後たびたびバッタの大群の来襲にも大打撃を受け、退耕者が相次ぐなど、苦難の歴史を歩むことになります。

そして1941年に太平洋戦争が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言しました。これにより日本政府の援助も後続移民が途絶えた上に、日本人移住者は敵性外国人として日本語学校・青年団の解体などを強いられ、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となりました。

​4.戦後のパラグアイ移住

​戦後、日本は敗戦によりアジア地域からの引揚げ者・復員軍人などの1,000万人以上の余剰人口を抱えてその人口対策として政策的に海外移住を進める時代に入ります。

1952年にラ・コルメナの創始者宮坂国人氏の名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付け、1955年にはチャベス移住地への入植が始まりました。しかし、日本外務省の一部の反対により混乱を来たし、現地での受入準備や分譲地準備もままならないままに移住者を受け入れることとなり、完全な自給自足に近い生活の中、原生林を切り拓いていくことになりました。

​現地での受入状態が整備される間もなく次々と移住者がやってきたため、同年6月の4次移住家族の時にはすでにチャベスには配耕地が不足する状態となり、日本海外振興株式会社によって新しく開設されたのがフラム(現在のラ・パス)移住地です。日本からの海外移住者の送出は配耕地の造成や受入準備の速度を上回り、1955年中にはフジ地区、1960年にはラ・パスおよびサンタ・ローサ地区が満植となりました。

この過程で、受入設備のない未造成地に移住者を送り込むことになってしまったため、移住者達は極度な困難の中におかれました。アマンバイへの移住はパラグアイ移住史の中では特異なケースであり、1956年CAFE農園への契約雇用農として入植をもって始まります。

しかしながらこの移住に先立っては住居も何も準備されず、コーヒー農園の奴隷に代る労働力として導入されたという背景もあり、その労働条件や待遇は非常に厳しいもので、退耕者はあとを絶ちませんでした。そして1958年にはその雇用主が倒産するにいたり、宙に浮いた移住者のうちで土地を探し、自営入植を進めていきました。

​一方、フラム移住地の満植に先立ち、日本海外移住振興会社(株)が開設したのがアルトパラナ(現在のピラポ移住地)です。この移住地は今までの苦労や困難の経験を生かし、入植前に道路造成や収容設備を整備し、1960年8月から入植を開始しました。しかし基盤の整備はされていたものの、主要都市からは 80kmほど離れていたこと、雨が降れば交通が遮断される原始林の中であることで、他の移住地同様の困難がありました。

​そしてその翌年の1961年8月には、1959年に締結された日本パラグアイ移住協定に基づき、イグアス移住地が開設されました。

イグアス移住地はアスンシオンからブラジルへ抜ける国際道路沿いということもあり、今までの移住地の経験を生かした移住地として作られ、フラム、チャベスの二男、三男がモデルとなって分家入植し、その後1963年、日本からの移住者を迎えるに至りましたが、おりしも日本では急速な経済成長期に入り、その後は日本からの移住者は減少し、現在に至っています。

​5.日系移住者がパラグアイ社会にもたらしたインパクト

戦前、試験的という厳しい条件の中、日本人移住者達がラ・コルメナにおいて数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において勤勉な日本人という印象を与え、その後の日本人移住者に対する大きな信用を与えました。​また農業分野での貢献は大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人食生活の改善に大きく貢献しています。​

現在のパラグアイにおける日本人移住者は約7,000人、人口から見ると0.14%の少数民族ではありますが、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、今では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国となりました。特に日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培」は、非常に高い生産性を誇っています。

​また、それまでは輸入に頼っていた小麦も、現在はその29%が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく、輸出により外貨獲得にも貢献しています。日本人移住者たちは原生林であった土地を切り拓き、生産性の高い耕地へと変え、高い農業技術を持ってパラグアイの農業経済を支えてきたといえます。現在は、農業のみならずあらゆる分野においても、日系人は勤勉で正直であるという高い評価を得ています。

​また、日本からのパラグアイに対するODA(政府開発援助)の94年までの累積実績は、マルチ(多国間協力)を含めた全体の55%、バイ(2国間協力)では70%にもなっています。

​6.パラグアイ日系社会の現状と将来

現在パラグアイ全土に在住する日本人移住者は約7,000名です。当初は農業開拓の為の移住でしたが、現在は移住地だけではなく、アスンシオンやエンカルナシオン、シウダー・デル・エステといった都市部を中心に、商業、工業、金融業など幅広い分野で活動しています。

​移住当初の困難をくぐりぬけ、豊かな穀倉地帯を拓き、パラグアイの栄養事情をも改善せしめた日本人移住者は、現在は農業分野にとどまらず、これらの各分野においても「勤勉で誠実である」という高い評価を受け、ピラポやラ・パス移住地では、日系人が市長や市会議員に当選しています。

​それぞれの移住地では、農協や日本人会が中心となって治安や道路整備や医療活動等の自治活動を活発に行うことで、それぞれの地域における行政の補完的な役割を果たし、移住地周辺住民全体の生活環境の改善に資しています。

​しかしながら近年、パラグアイの経済状況の悪化に伴い、1980年代より日系人の日本への出稼ぎが急増したことで、移住地を中心に若い世代の空洞化が懸念されています。今までの世代が築き上げてきた社会を今後さらに、発展させていくためにも、世代交代を踏まえて今後の日系社会の後継者を育成することが求められています。

​また、今までパラグアイの日系社会では、一世の努力により、南米の日系社会においても特異といえるほど高い日本語能力を維持してきたため、移住開始より60年以上経過した現在も、各地の日本語学校では日本の国語教科書を用いた国語教育を中心に行われています。

しかしながら、世代が進むにつれて日本語で会話をしない家庭も増加し、また地域の非日系人からも日本語教育のニーズが高まっており、従来の国語教育にあわせて「外国語としての日本語教育」の拡充が急務となっています。

​出展(パラグアイ日本人会連合会ホームページ)

http://rengoukai.org.py/ja/la-sociedad-nikkei/historia

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